NO IMAGE

黒柳徹子 50年来の親友・森光子さんの弔辞で涙…「女学校の上級生と下級生のような関係のまま…」

黒柳徹子 50年来の親友・森光子さんの弔辞に涙…「女学校の上級生と下級生のような関係のまま…」
沈痛な面持ちで祭壇へと向かった黒柳徹子

 女優・森光子さん(享年92)の本葬が7日、東京・青山葬儀所でしめやかに営まれ、半世紀以上という強い信頼関係で結ばれていた女優・黒柳徹子(79)が弔辞を読み上げた。

 ■以下、全文
 「森光子さん。50年ぐらいの間、優しくしていただきました。生放送のなか、切り抜けてきましたね。そのころの森さんは、『コピー機』と言われるぐらいセリフの覚えが早い方でした。NHKの専属だった私が、フリーになるのでマネージャーを探していたとき、ご自分のマネージャーを紹介して下さったのも森さんでした。長いこと同じ事務所でした。舞台でも、どのぐらいお世話になったか分かりません」

 「森さんは本当にユーモアのある方でした。50年近く前、芸術座で『縮図』という徳田秋声の芝居をご一緒しました。菊田(一夫)先生の脚色でした。私も森さんも、東北の芸者でした。ある日、出る前に、森さんの部屋で私は、アメリカのイサドラ・ダンカンというダンサーは、首に長いスカーフを巻いて、オープンカーに乗ってたらスカーフが車輪に巻き込まれて死んだそうです、と言ったら、森さんは『かわいそうね』と言って本番になりました。雪の河原で、お金持ちの坊ちゃんに捨てられた森さんが、うずくまって泣いていて、私が助け起こすシーンでした。私が冗談めかして『なしてこんなとこさ寝てんだい』て言って抱き起こすのです。私が抱き起こしたら、森さんが小さい声で『イサドラ・ダンカン、イサドラ・ダンカン』とおっしゃいました。気がついたら、私は森さんが首に巻いてらっしゃる薄いスカーフを下駄で踏んで持ち上げたので、森さんの首が絞まってたんです。その瞬間的なユーモアに、私は自分が悪いのに、感動していました。あなたはそういう方でした」

 「私がニューヨークに1年くらい留学と称して休養に行った時、ある日、森さんからお手紙が来ました。体に似合わない大きな字で『お小遣い困っていませんか。いつでも言ってね』と……、私は、泣きました」

 「『放浪記』の最後の頃に出させていただいたとき、『徹子ちゃん、好きなようにやってね。何もとらわれないでね。そうすれば私も変われるかもしれないから』。2000回になろうという時、まだ変わろうとしていらした森光子さん」

 「『あなたとお食事に行きたいから、リハビリしてます』。これが森さんから最後にいただいたメッセージでした。私は楽しみにしていました。森さんは必ず、また舞台に戻っていらっしゃる……。私はそう信じていました。残念です。森さんが一番残念だと思っていらっしゃるでしょうね。ですから、いまも『放浪記』の最後のシーンで、机に寄りかかって寝てらしゃるのだと思っていますね」

 「森光子さん、女学校の上級生と下級生のような関係のまま、50年以上お世話になりました。こんなつらいお別れは、ありません。森さんの女優魂は、私たち後から行く者を導いて下さるものと信じて生きていきます。本当にありがとうございました」

 涙をこらえながら弔辞を読み終えた黒柳は、その場で森さんの遺影に向かって顔を上げると小さく手を何度か振る。そして、席に戻った黒柳は、ハンカチで数度、涙をぬぐっていた。

広告