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菅直人元首相が調べた東日本大震災直後の東電の動きとは?さまざまな事例挙げる【映画「ナオトひとりっきり」トークショー 3/4】

菅直人元首相が調べた東日本大震災直後の東電の動きとは?さまざまな事例挙げる【映画「ナオトひとりっきり」トークショー 3/4】
当時の東電の対応を交えてトークが展開された

 ※「福島・富岡町の松村直登氏 東日本大震災当時の菅直人元首相へ問いかけ【映画「ナオトひとりっきり」トークショー 2/4】」から

 松村直登氏:メインの国道6号線が第二原発の近くで陥没して車が通れない状態で、あれだけ緊急なのに、4ヶ月かそこら迂回して細い道を通ることになった。なんであれがスーパーゼネコンに言えば3、4日で仮復旧できるはずなのにと考えた。当時あそこの道路ってなんで直らなかったんですかね?
 菅直人元首相:個々の部分がどうなったということはわかりませんが、当時、いろんな報道があった中で、今から考えてみると結果として間違った報道というのはものすごくたくさんあった訳です。一番わかり易い例を言うと、いつメルトダウンが始まっていたかというと、いろんな段階でやりとりがあって、ハッキリと東電がメルトダウンという言葉を使ったのは1、2ヶ月後です。しかし、今分かっているのは、地震が起きた、3月11日の午後2時46分ですけれど、4時間後の6時40分ごろにはメルトダウンが始まっていたというのがいま分かっていることなんです。じゃあなんでそんな重要なことが分からなかったか?当時、私のところにも夜の10時、11時になっても、『水はまだ十分にある。だからメルトダウンしてません』という報告が東電から来ていました。もちろん、現場から、(東電)本店を通して来てました。なぜそんな報告が来るのか?いま分かっているのは、水位計が壊れてた。ときどき、表示がするので大丈夫だと思っていた水位計そのものが壊れていて、水が減ったのを検知できなかった。だから、まだメルトダウンをしてないと。

 いろんなことを言い出せばいろいろありますが、ゼネコンがと言われましたが、ある時期に、こういう報道もありました。これは報道が間違っているわけではないです。東電が現場がですね、従業員の車からバッテリーを出してもらって、それをつなぎ合わせて、それで、メーターの直流を使うので、メーターを見たというのがたしか報道されました。私もそのとき、確かに臨機応変に、直後ならそうせざるおえなかったと思いますけれど、2日か3日経っているんです。なんで、東京からかどこかからかしらないですけれど、電池などやそういうものが福島第一に運び込まれないんだと。後で調べてみました。東電はあれだけの巨大な組織ですけれど、私がそのことで調べた限り、直接自分の会社でものを運ぶということは、していません。全部下請けです。そして下請けはそのことを頼まれたら、下請けの会社の運転手さんは、もうみんなが逃げ出しているところに、自分が行くのはそれは勘弁してくださいということで、Jヴィレッジよりも離れたところまでは持っていきますと。そこまでは避難の範囲になっていないから。そこから運ぶのは東電の第一の方から誰か取りに来てくださいみたいなことをやっているんです。吉田調書のなかにもそのことが出ています。一体何を考えているんだと、自分たちはてんてこ舞いでと言ってますが、後でないかそのときかもしれませんが、当然優先すべきことを、たとえばいま言われた第二原発のところのそういうことがあるとすれば、すぐやればよかったというのはたぶん正しいんだと思います。けれど、そういうことがキチッと指揮できる状況に東電というのはなっていません。(東電は)ものすごい力を持っている。政治的にもお金的にも。直属部隊ももちろんいますよ。でも、輸送1つできていません。事例はほかも挙げれば数限りなくありますが、たぶんですから、ここを優先してやらなければいけないというのは、誰もというか判断できなかったんだと思います。

菅直人元首相が調べた東日本大震災直後の東電の動きとは?さまざまな事例挙げる【映画「ナオトひとりっきり」トークショー 3/4】

 言い出せばキリがないですが、もう1つ挙げます。こういった厳しい事故が起きた時には避難の問題は、減災本部が判断するんです。減災本部は官邸に置かれますが、実際には現地対策本部というのを置いて、現地の自治体とか、警察とかと、この地域の人をここに避難させようということで、現地対策本部が実質上仕切っているんです。東京で全部するよりその方がいいとなっていたわけです。じゃあ、実際どうなったかというと、現地対策本部を置くのは福島原発から5キロのところにあるオフサイトセンターということになったんです。それで11日の地震があった直後に、現地対策本部長になるのは経産省の副大臣と決まっていましたから池田副大臣が向かうんですけれど、大渋滞でつかないわけですよ。それで、戻って、ヘリコプターで行ってやっとついたのが、12日の午前0時をちょっと回ったあたり。ついてみたら、全部停電。電話がつながらない。必要とされる人が、津波とか地震対策でてんやわんやで集まらない。つまり元々が、地震と津波と原発事故が一緒に起きる、つまり複合災害として起きるということも想定していないわけです。減災本部を作るという法律というのは、東海村の臨界事故のときに、それに対する対策が十分じゃなかったということで法律を作ったんですが、臨界事故というのは原発事故じゃないし、単独の事故だった。地震とか津波と複合じゃない。でも現実には複合的な中で起きて、ですから、オフサイトセンターまで、人が行けないということまで、想定していないんです。結果的に避難の問題も人は集まらないし、通信回線もないから事実上機能しないで、結果として官邸の関係者が集まっているところで判断するしかない。それ以外に判断する場所がないから。ありとあらゆるところが、ある意味で十分な対応がとくに早い段階でできなかった。その中の1つがいま言われたことじゃないかと私は思います。

 ※「菅直人元首相「神のご加護がやっぱりあった」原発事故に危機感共有を訴える【映画「ナオトひとりっきり」トークショー 4/4】」へ

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