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福島・富岡町の松村直登氏 東日本大震災当時の菅直人元首相へ問いかけ【映画「ナオトひとりっきり」トークショー 2/4】

福島・富岡町の松村直登氏 東日本大震災当時の菅直人元首相へ問いかけ【映画「ナオトひとりっきり」トークショー 2/4】
松村直登氏(右)が菅直人元首相に問いかける

 ※「菅直人元首相 放射能リスクある福島・富岡町の松村直登氏に「勇気がある」【映画「ナオトひとりっきり」トークショー 1/4】」より

 松村直登氏:あの当時、実際に3000頭近くあの(警戒区域)20キロ圏内にいた牛は、1000頭以上は餓死し、1000頭近くは殺処分であの当時、保健所とかでとにかく全面マスクと防護服を着て毎日、野良牛といわれる外にいる牛を追っかけて殺処分。グルグル回っているうちに必ずどこかで1日1回は会うんですけど、俺の車を見ると逃げ出すようになる。そうしているうちに、あの中に飼い主である人とかが、俺の牛はなんとかして助けるって言って、結局最後は700頭の牛が残ったんですよ。そうしたら、今度はあろうことか、獣医師会が立ち上がって、700頭をすべて獣医師会の権利で面倒見るって話が持ち上がってきて、一度、20数人がそこに集まって会議を開いたんです。結果的に、その文面は『われわれが全部その牛を保護したら、元の畜主とか飼い主は一切の権限はなし』っていう文言が入っていて、これはおかしいなと思って。たぶん、私的に考えれば、あの当時、裏で農水省が絶対に動いていると。当時私ともう1人の希望の牧場の吉澤さんがいろいろ話した結果、エサ代も3億円かかると。もしエサ代がなくなったらどうする?そんなときは考えるとかって、じゃあ俺らは付き合えないって、希望の牧場と私で、当時の牛の半分近く、300頭近くは、要はもう獣医師会に背いたわけ。そうしたら、こともあろうか3日過ぎたら農水省が牧場に来たわけ。だから、あの時、農水省と獣医師会はなにか話あっていたんだと思う。結果的にはそれは全部失敗に終わって、獣医師会は撤退という形になった。それで、いまでも700頭近い牛は、みんな必死になってボランティアとか募金とかのエサ集めで、なんとか生きながらえている状態です。あと、当時もう1つ聞きたかったんですが、中に残されたペットのことはまったく考えはなかったんですか?

福島・富岡町の松村直登氏 東日本大震災当時の菅直人元首相へ問いかけ【映画「ナオトひとりっきり」トークショー 2/4】

 菅直人元首相:議員の中で若い議員が非常に関心を持って福島に入って、松村さんともお話されたと思いますけど、そういう議員が家畜や動物を生かして、ある意味では被曝をしているという中で松村さんとも話をされたと思いますが、そういう動物が被曝による影響が出るかということを研究対象という形で飼い続けるということはできないかということを、いろんな形で行動して話していたのは当時のこととしては、私も覚えています。

 ちょっと話を戻せば、原発事故そのものを誰も想定してないし、従来の日本で起きた、たとえば東海村の事故などもせいぜい被害の範囲は数百メートルくらいの範囲で、数キロ、数十キロの範囲から人々が全部避難しなければいけなくなる。これは最終的には、減災対策本部、当時の本部長は総理である私ですが、もちろんそのときに判断したわけですが、ペットや動物にどういうことが生じるかと。少なくとも率直に言って、原発事故自体を想定してないし、まして大勢の人が長期間に逃げることも想定してないから、そのときに、家畜やペットがどういう状況になるかというのを事前に考えていたというのはまずなかったと思います。現実にそういう場面になってどうするかということですから。まさに松村さんは松村さんとして行動されましたが、保健所とか農水省とかの管轄で、そういう関係者が専門的な人に意見を聞いて、判断して、最終的には大臣のところまで決済は行ったかもしれませんが、そういう形で進められていたと思います。全部私が知っていたわけでは、もちろん膨大な問題が動いてますから、少なくとも今言われたペットとか家畜とかについては、その通りだと思います。

 ※「菅直人元首相が調べた東日本大震災直後の東電の動きとは?さまざまな事例挙げる【映画「ナオトひとりっきり」トークショー 3/4】」へ

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