15日に亡くなった大島渚監督(享年80)の通夜が21日、東京・築地本願寺で営まれ、参列したビートたけし(65)がお悔やみを述べた。
たけしは1983年に公開された大島監督の『戦場のメリークリスマス』にコメディアンとしての活動が最盛期だった時期に抜てきされ、坂本龍一(61)とともに主演を務めた。
「うん、まあ。夢のようだったね。何にも大島監督は龍一ちゃんとデヴィッド・ボウイくんと『戦場のメリークリスマス』をやって、あのころ全然わけ分かんないでやってたけどね…、すごいね」と、語りだす。
「あの当時、大島さんみたいにキャスティングや海外ロケもできないようなことをやってしまう。その後やっぱり龍一ちゃんと、私も海外で大きな賞を獲るし、おかげさまで私も映画の世界で活躍するようになった。きっかけはすべてその辺ですからね。ありがたいっていうか、もっと前に感謝しておけばよかったなって。いまとなっては、すごいことをしたんだなって」と、北野武監督として現在活躍する一因となったことを振り返った。
当時の大島監督との思い出については、「マニアックなんだけど」と前置きしつつ、「映画監督で寄りの絵を多用するやつはヘタだって言ってて、だから『戦場のメリークリスマス』はあの一発が勝負だったって言ってて、その影響か、自分もなかなか寄りの絵が撮れなくて、16本も撮っているのにあんまり、グッと寄った絵がないので、それが影響しているんだろうなぁとは思うんですね。こういうことが残ってるんです」と、いまだに大島監督の言葉が心に残りフィルムにもその気持ちが出ているそう。
客観的に『戦場のメリークリスマス』を観て「映画監督とかやんないんだったら、すごい映画だなぁと。映像もすごいんだけども、あんとき事件が起きて、カメラがガガガって引っかかってるんだよね。それが見事に演出を観ると、よくて使ってるんだよ。使われてるんじゃないかな。あれ、事故だったんだよね。ここ一番でフィルムがひっかりがすごかった」。
大島監督の好きなところについては、「監督は個性あるからね。黒澤監督のような大河ドラマを描く人と、強力に問題作に切り込んでいく人。大島さんは、問題の方じゃないの。問題を起こしてよくあそこまで引っ張ったなって。みんなが手を出さないところに踏み込んでいくのは体制に対する批判かな。『戦場のメリークリスマス』ではハラというのを演じたけど、その半年後にフランスに行った時に、ほとんどが、ハラと呼んでて、変な話、国際映画祭でもすぐ通してくれた」のだとか。
「やっぱり映画好きだからね。たぶん一番映画監督で冷めちゃって、あんまり大して映画好きじゃねぇというのは俺くらいかもしれない。あとは全員ものすごい賭けてて、みんな映画好きなんだよね」と少し自虐的に話すたけしだが、大島監督から自身の作品を観てもらったときには、「潔い映画を撮るねって言ってた。その反対の大島さんみたいに観る意味のある映画があるから潔いって言っちゃったんだろうな」。
大島監督とは2000年5月にカンヌ国際映画祭に一緒に参加したのが最後になったそうだが、「崔洋一さんと車イスを運んでね、冗談ばっか言っててね。動かしてたら『戦艦ポチョムキン』になるぞとか言って。その運んでいる人は『楢山節考』になるぞとか」と笑みを見せるたけし。闘病していた大島監督には「手紙を書いて、絵を描いて。あとは見るとつらいから、意識して見ないようにしていた」という。
「やっぱり黒澤監督の作品も大島監督の作品も、これから映画とかいろんなエンターテイメントに臨む人には必見だと思う。ぜひとも観てもっと勉強してほしいし、全部取り入れることはないけど、いいところも悪いところも表現されているんでいいところだけ取ればいいんじゃないかな」と、後進へのアドバイスするたけし。
最後に、「また向こうで怒鳴ってくだい。」と話したたけし。これは『戦場のメリークリスマス』で、「最初、龍一ちゃんと怒鳴られたら帰るって言ってて、『俺達は役者でもなんでもないから』と言ってた。漫才師とミュージシャンだから。そうしたら、おいらの相手役ばっかりが怒鳴られた。それがかわいそうだった。だから、おいらを怒鳴ってくれていいですよと。今度はおいらを怒鳴ってくださいって」といい、「ありがとうございましたしかないし、そのうち俺もそっちに行くし」と、その場を後にした。